母親

私は母親が嫌い。
嫌いな理由はたくさんある。
まず母親は感謝と謝罪が出来ない。
そして、母親は健康なのに働いていない。それなのに精神病の私に働けと言う。
女は不要だ。私はそんな世界で生きてきた。その証拠に、私と妹の両方を養子縁組に出そうとした。

長女の私が生まれて、次女が生まれて、息子が欲しかった両親は、不妊治療をして、やっと授かった。弟が生まれると、生活が一変した。何でも弟優先になった。でも、母親がおかしくなった。

「早く子どもを産んで。顕くんを育てるの失敗したから、今度は失敗しないようにする。もう顕くんはいやだ。早く孫のお世話をしたい。」
これが母親のここ数年の口癖。弟が高校受験に失敗して、代々通っている公立の進学校落ちて、名前さえ書けば合格する底辺の私立高校に入学した頃から言い始めた。

弟は小学生の時に、スポ少の野球に興味を持った。始める前に母親が監督に聞いて、バッド、グローブ、練習用のユニホームと試合用まで必要な物を一式買いそろえて。父親は弟が野球を始めたら、試合等で乗り合わせるだろうと思って大きめの車を買って。そしたら弟が始める直前に週三回の練習が嫌だと言い出した。どうやら母親が誘導していた。母親が言うには「大事な場面で顕くんが失敗して、チームが負けたら申し訳ないから。」

私が保育所の頃。保育所から帰って来て。靴を脱いでそろえて置いて、手を洗って、テレビを見ていた。悪い事は1つもしていないのに、いきなり母親にヒステリックに怒鳴られた。骨が折れない程度に投げ飛ばされる事が頻繁にあった。

私や妹の時には、テレビは電磁波が身体に悪いから、1日30分と言っていた母親。弟の時にはお世話が面倒だからと、弟をテレビの前に座らせて、何時間もビデオを観させた。

弟の小学校入学の一年前。保育園でひらがなを習わなかったから弟はひらがながほとんど読めない書けない。しまじろうの子どもチャレンジを始めようと教材を取り寄せた所、拗音 ゃゅょ  促音 っが年長さんのレベルで。ひらがなを1から学びたいと電話すると年少さんの教材を遡ってできると言われ。でも母親はプライドが無駄に高いからそれが嫌だったらしく子どもチャレンジをしなかった。その結果、弟は小学入学直後から授業についていけなかった。

弟は足し算引き算が理解出来ず、掛け算割り算が出てくると四則計算が混乱状態。あまりにも授業についていけず、担任が障がいを疑い、検査を受けた。障がいではないという結果だったが、授業の補習のため、ひまわり学級で放課後に個別指導。

ひまわり学級の保護者会に呼ばれ、障がい者扱いをされる事に両親が怒った。で、私が障がい学級の先生に両親の事を相談しに小学校に行った。それ以降補習は打ち切りになった。

弟は小学校の宿題を、なかなかやらなかった。母親が消しゴムを握り、ずっと側についていて、弟が間違えると、母親が消しゴムで消していた。

何時間もかけてダラダラやった、漢字ドリルのページを間違えて。母親は弟の友だちのなおくんママに電話で相談。「『せっかくやったのに意味がない』って言うけどどうしよう」って言っていた。

弟が宿題をやらないから、母親が弟にお金を渡していたことが発覚。私が証拠をつかみ、妹が塾の無い日に、妹に伝えて二人で弟の部屋に乗り込んだ。妹の怒り爆発。説教タイム。

私が小学生の時は家族そろって夕食だった。でも、私が中学に入ると、部活や学習塾で時間がずれた。妹も小学6年の時にスポ少のバレーボールを始めて、帰りが遅くなった。次第に家族そろって夕食を食べる事がなくなった。弟はとにかく好き嫌いが多い。家族バラバラの食事時間を利用して、弟だけ別メニューだった。たまに家族がそろう時には、母親が「顕くんは学校から帰ってきてお腹が空いていたからすぐにご飯を食べた。」と平気で嘘をついた。実際は好きなお菓子を食べただけ。中途半端な時間にお菓子をお腹いっぱい食べたから、ご飯が食べられないだけだった。

母親の頭の中は弟の事で一杯。弟の単元末の小テストの日は把握しているのに、私の塾の曜日は一向に覚えてもらえず。塾の日は部活が終わって速攻で帰宅し、すぐにご飯を食べて塾に行かないと間に合わないにも関わらず、塾の曜日を覚えないから、ご飯を用意してもらえなかった。だから次第にあきらめ、コンビニで菓子パンを買うようになった。

母親は弟が中心のため、お風呂も弟が一番最初。弟の宿題が終わらなかったら、お風呂を沸かす事すらしなかった。ガスバーナーの音がうるさいから、0時過ぎたらお風呂に入れないという我が家のルールがあった。ひどい時には、弟の宿題が終わったのが23時で、それからお風呂を沸かす日もあった。6人家族なのに2人しかお風呂に入れず。母親が、弟が一番風呂と決めているから悪いのに、2人しか入らなかった日は母親がお湯がもったいないと不満たらたら。

弟が帰ってきて、食べ物を与えて、家族の夕食を用意して、その後、母親は弟の部屋にこもって。宿題は付きっきり。お風呂も一緒に入り、布団を隣に並べて一緒に寝る。で、真夜中に母親が起きて、夕食の茶碗を洗っていた。家族の中でそれは異常だという話になり、弟は一人でお風呂に入る事になったが、弟がお風呂に入っている時に、母親は洗面所に座っていて、二人でずっと話していた。結局状況は変わらなかった。

家で行事がある時。私や妹は生まれた頃から、訳も分からず参加していた。私は小さい頃から、大学受験直前の高校3年冬まで、準備を手伝い、行事に参加していた。でも、跡取りである弟は特別で、行事の時に遊びに出るのを認められていた。私や妹は部屋にこもる事すら許されず、外出なんて論外だったのに。

私が高校1年の夏の期末テストの時。勉強していた私の所に、母親が思い詰めた顔で入ってきて「顕くんを殺した方がいいんじゃないか」って泣きながら私に言ってきた。私はその事を父親に伝えたけど、「何をバカな事を言っとるんじゃ」と怒鳴られて、相手にしてくれなかった。祖母にも伝えたけど「私は顕くんを本当の孫だと思っていない」と言われた。弟は不妊治療の末に授かった子。祖母は不妊治療を理解していなかった。それで私が高校に行っている間も、母親の事が心配で暗い顔をしていたら、クラスの女子から無視された時期があった。

私が高校2年の夏の期末テストの時。今度は突然の養子縁組の話がきた。相手は親戚でも何でもない近所の一人ぼっちのおじいさん。はじめは家系を絶えさせたくないと言って、死ぬ時に一人は嫌だと言っていた。父親も母親も養子縁組に賛成。賛成する両親の神経が理解出来なかった。私はどうすればいいか分からず2週間に1回しか学校に来ない、スクールカウンセラーに相談した。高校中退を覚悟した。

父親と祖母は、私に龍谷大学に行って、保育士になって欲しかった。母親は私に教育大学に行って、保育士になって欲しかった。「顕くんの子育てに失敗したから、保育士の資格を取っとけば良かった。だから、あなたは保育士になりなさい。」これが母親の昔からの口癖。

中学の部活では卓球部に入りたかった。でも母親と祖母が、「あなたは吹奏楽部に入りなさい」と言って、吹奏楽部以外許してくれなかったから、あきらめて吹奏楽部に入ったけど、毎日辞めたいって思っていた。

私は中学で数学が好きだった。高校の時には、大学でリハビリや栄養を学びたかったから、文理選択は理系を選びたかった。でも両親と祖母が望んでいる保育士は文系。私は両親と祖母に理系に行く事を許してもらえなかった。

高校2年、3年と、受験が近づいてくると、母親と進路の話をする事が増えた。私が「リハビリを学びたい」と言うと、「幼児教育の何が不満なの?私はね、あなたの将来を考えて言っているの。」から始まり、母親が3時間ぐらい一方的にヒステリックにキレられた。模試があって進路の話題になる度に、この事の繰り返し。この事は必ず母親が私と二人の時の事で、他の家族は知らない。

高校3年の冬の大学受験の時に、リハビリを学びたいと主張したけど、結局両親と祖母に反対され、龍大の文学部しか受験させてもらえなかった。

受験の前は祖母に、「龍大ぐらい合格しなさい」と怒ってピシャリと言われて、龍大の文学部に合格したら、祖母におめでとうより先に、「保育士になるんだね?」と言われた。幼児教育課程じゃなくて、文学部を受験しろと言っときながら、何1つ理解していない祖母に腹が立った。

龍大に合格したけど、リハビリがどうしても学びたかった。そしたら母親が、通帳を見せて、「このお金で大学卒業後専門学校に行かせてあげるから、龍大に行って欲しい」と言われて、龍大に入学した。

でも、1年の夏休みに帰省した時に、母親にその話をすると、「何の事?覚えてないし、そんな事絶対言ってない」とヒステリックにキレられた。彼氏が出来たけど、「同業者じゃないなら別れろ」と、帰省中祖母に顔を合わせる度に数えきれない位言われた。初めて自分の意思で手話サークルに入ったけど、「健常者が手話なんかやるもんじゃない、すぐにでもやめなさい。」と祖母に何度も言われた。帰省がきっかけで心が折れて、うつ病になった。大学1年目の後期をうつ病で休学し、それ以降ずっと薬を飲み続けて、色々な薬を試して、薬に興味を持って。

休学手続きをした後に、父親に「休学を帳消しにするために、大学院に行ったらどうか」と言われた。だから大学3年の時に父親に「大学卒業後、1年間の薬の専門学校か、3年間のリハビリの専門学校に行きたい」と言った。資料を請求して学費の安い所を探し、オープンキャンパスに行って、どんな勉強が出来て、何の資格を取れるのか調べた。

でも、「大学院にすすみたいのならまだしも、何でそんな事を言い出すんだ」と父親に怒鳴られて終わり。

妹の夢は高校現役で落ちても、完全寮の浪人(1年間300万円)を2年許してまで応援するくせに、私は意志を持つ事すら許されなかった。

弟が浪人している時、肝心の跡取りの弟には、どこの大学に行ってもいいと父親が言い出した。私は行きたい大学があったけど、受験すらさせてくれなかった。それなのに、弟は龍大じゃなくてもいいって、私の人生何だったの?

私の休学中も、2016年の入院中も、母親は私を心配してくれなかった。山口から入院の面会に来ても、弟の話ばかり。自分が話したい弟の話をして、満足して帰っていった。

2016年に3月に入院して、「6月に退院が決まった」と母親言ったら「それじゃあ、6月から訪問介護で働くんだね。そのための研修をすぐ受けるの?」って言われた。無神経さにイラついた。

私が高校2年の時の、養子縁組の話が妹にまとまると、2017年頃、私に2度目の養子縁組の話がきた。今度もまた親戚でも何でもないおじいさん。今度もまた両親とも賛成。そのおじいさんは子どもはいるけど、家や土地の相続に困っているから、養子縁組をしたいという意味不明な身勝手な話だった。

昔から母親に愛されていない自覚があった。跡取りの弟にべったりで、弟の話は何時間でも聞くくせに、私の話は1ミリも聞いてくれなかった。私の事なんてどうでもいいんだと思う。だから養子縁組に簡単に賛成するんだろう。

私を支配したがる母親の事が本当に嫌い。憎しみの感情しかない。母親の遺伝子が私にある事が気持ち悪い。出来る事なら、細胞も血液も全部入れ替えたい。私は母親の携帯番号もメルアドも、ブロックしている。それでも母親は何とかして私と連絡を取ろうとする。私は母親の顔も見たくないし、声も聞きたくない。死んでも会いたくない。早く縁を切りたい。大切にしてくれないなら、産んでほしくなかった。母親が大嫌い。